野生司香雪について

野生司のーす香雪こうせつ KŌSETSU NŌSU(本名述太 1885~1973)は、再興日本美術院に所属した近代の日本画家です。しかし、当時画家にとつて相互扶助のためにも大切な師弟関係も無く、しかも美校出身という立場の香雪には画壇に自らの居場所はなかったようで、結果、他の多くの画家を目指した人たちと同じように画壇から疎遠になりました。しかし画家としての活動は細々と続け,晩年には在野の仏教画家、仏画家、インドで壁画を描いた画家として知られ生涯を閉じました。

いつの時代も絵を描くことが好きで、その道に進み志半ばにしてその生涯を終える画家の如何に多いことか…。明治の初めに讃岐は香川県の高松市郊外の役僧の長男に生まれながら画家を志した野生司香雪(本名述太)もまた、その一人のはずでした。

しかし、香雪には不思議な運命のめぐり合わせから、遠くインドの地、お釈迦様が初めて説法をした土地に建てられた仏教寺院、初転法輪寺の仏伝壁画を描くという幸運に恵まれ、足かけ5年、全身全霊を掛けてそれを成し遂げました。

野生司香雪は、明治18年に香川県の高松市郊外の浄土真宗寺院の持僧の長男に生まれました。子供の時から絵が上手で、才を惜しんだ恩師が学費を出してくれて当時新設された香川県立工芸学校(現県立高松工芸高校)に進学、そこから今度は地元有志の善意で東京美術学校(現東京藝大)に進み日本画を学び人物画を得意としました。その後、明治41年に卒業し日本橋の三上呉服店の図案描きをしながら画家の地を目指し、横山大観らが再興した日本美術院に参加、仲間と共に切磋琢磨します。

この間、生活のため淑徳高等女学校の図画講師になり、大正6年には前島密の支援を得て日本芸術の母の国と仰ぐインドへ仏教美術研究のために渡り、コルカタの博物館やサールナートなどの仏蹟を調査旅行。帰国直前に偶然、アジャンター壁画の模写に向かう荒木寛方に出会い、誘われ参加。現地でこれも偶然に美校時代からの親友、桐谷洗鱗に出会い、終了後にはそろってコルカタに貴館しました。その後香雪とは違って洗鱗は、香雪の所属した日本美術院ではなく、新しく始まった文部省主催の展覧会帝展で活躍、作家としての道を進んて行きます。

香雪は帰国後の大正9年にその体験を生かした六曲一双の屏風「窟院の朝」を出品、同人でも落選する超厳選主義の中で初入選、しかしこれが最初で最後、以後は院展と国が開催する帝展、そして審査員を巡る激しい争いの中で、美校出で師弟関係を持たない香雪の居場所はなく画壇から疎遠になりました。しかし、決して筆を折った訳ではなくインドの仏教美術への関心を持ち続け、仏教や梵語講座などに参加し勉強を続けていました。

そんな中で、昭和6年、仏教発祥の地でありながら長く途絶えているインドでの仏教復興を志し世界に呼びかけ活動していたスリランカ人のダルマ・パーラ(1864~1933)が仏教聖地サールナート(鹿野園)に寺院を建立。堂内に釈尊一代記を描こうと仏教国で当時アジアの先進国日本に依頼してきました。歴史、世界的な事業に関係機関が協議し、帝展で活躍する親友の桐谷洗鱗が選ばれましたが、渡印直前に病に倒れ急逝、関係者や日印協会が再度協議し香雪が選ばれ、助手として洗鱗の弟子の河合志宏と共に渡印、インドの厳しい自然、経費不足を個展を開催して経費を捻出するなど苦労を克服し足かけ5年をかけて完成させました。

それはまた図らずも、かつて香雪か所属した日本美術院の創設者、岡倉天心、横山大観らが望み、実現しなかった日本画を世界にとの志の実現でもありました。

昭和11年、インドからの帰国後、新聞などで紹介され有名人となった香雪は、以後は仏教画家、仏画として全国に知られることとなた香雪に再び幸運が舞い込みました。

それは、信州の善光寺ら新築中の納骨堂、雲上殿の壁画揮毫の依頼でした。望むところ、香雪には一つの閃きがありました。インドで描けなかった壁画を描こう。香雪は快諾し準備を始め長野に移ります。本体の工事は昭和16年に完成、しかしその後は第2次世界大戦に突入し物資も不足、香雪は大勧進 に寄宿し結局壁画が完成したのは22年になりました。

大正6年 第1回渡印時パスポートより

大正6年 第1回渡印時パスポートより

壁画は善光寺本尊が信濃に伝わった物語を、二つの壁面に振り分け、片方は難波の津から善光寺へ、一方の壁面にはインドから大陸を経て難波の津までを絵巻物風に描きそれぞれの最後に聖徳太子、成道仏を描き対比。そこで香雪は、当初渡印の際に関係者と協議し描く予定だが描かなかった画題、「仏教の世界伝播の一例」を善光寺の本尊、三尊仏渡来の物語として描き、初転法輪寺の仏伝と関連付け完結させ、初転法輪寺の壁画と善光寺の壁画を時空を超えて結びつけました。

この間に、納骨堂の近くの曹洞宗昌禅寺の佐藤住職の勧めで初転法輪寺から持ち帰り保管していた原寸大の下図を大本山永平寺に贈呈、現在順次宝物館で展示されています。

その後、長野市の芸術、仏教関係者ら文化人と交流、26年にはビルラ長者ら関係者の協力を得、最後にはインド政府の許可を得て聖牛(白牛)を3頭を招来しました。

そして、晩年は、すべてを捨てるように長野市の北、山之内の渋温泉の山荘を借りて終の棲家とし、請われればよく観音を描き妻に『うちの観音さん』と呼ばれる穏やかに暮らし、昭和29年には第2回世界平和会議の代表がわざわざ山荘を訪ねてきたこともありました。

そして昭和47年88歳、春雷の朝最後に「感謝」の一言を書き残して香雪は彼の地へ旅立ちました。敬愛するインド、仏陀の国へと…。