(香雪命名 ムーラガンダークティ―・ビハーラ、根本香積寺などとも)
わが国が近代国家を目指し始めた明治の時代、スリランカの居士、ダルマパーラ(1864~1933)が仏教発祥の地でありながら数百年に渡り途絶えているインドでの仏教の再興を志し活動を始めました。
ダルマパーラは、まず手始めとして仏陀が悟りを開いた聖地、ブッダガヤの大塔を買い取る計画を立てました。彼は日本や英米を訪問して熱心に志を説き資金を集め、日本の寺院から本尊にと託された仏像も持ち込み準備しましたが、統治者の英国や政府、ヒンドゥー教徒らの反対にあい失敗しました。そこで一歩引き下がり、コルカタにインド大菩提会(マハ―ボディー・ソサェティ オブ インディア)を創設しました。そして1931 (昭和6)年に仏陀が5人の弟子に初めて説法、仏教発祥の地といわれる、またダーメクの塔で有名だったサールナート(鹿野園)に米、英国人やインド人、日本人らの寄付を得て仏教寺院、初転法輪寺(香雪が命名・ムーラガンダークティー・ビハーラ)を建立しました。
そして寺院の堂内にアジャンターの石窟寺院のように仏画、仏伝を描き荘厳しようと考え、当時アジアの先進国で仏教国日本のコルカタ総領事館に画家の派遣を依頼してきました。
話を聞いた領事は総領事に相談しますが時節柄、民間の事と相手にされません。そこで領事はそれでもこれは日印の大切な文化交流事業と決意し、自ら本国に伝え、文部省宗務課や東京美術学校、民間の日印協会、仏教学者らと協議し、渡印歴もありインドの仏教美術にも詳しく当時日展作家として活躍していた桐谷洗鱗(1877~1932)を選び派遣することにしました。しかし洗鱗は出発直前に病をえて急逝。日印協会や学者らが再度協議し、これも渡印経験もあり、アジャンターの壁画模写経験もある香雪を選び、洗鱗の弟子、河合志宏を助手として派遣することにしました。洗鱗は香雪の美校時代の親友で香雪がアジャンター壁画模写に参加した際は偶然現地で出会うという奇縁もありました。当時香雪は47歳、出発に際しては郷里高松市に帰り、工芸学校を訪ねたり、縁者と水杯を交わしての出発でした。
壁画は、北に本尊を安置する南北に細長い建物の堂内の東西南の3壁面に描かれています。入口は南の壁にあります。
壁画の揮毫の経費は当初は大菩提会側が負担、元々は日本人を妻に持つ英国人の寄付でした。しかし当初1年程の予定が、厳しいインドの暑さは壁画を描くための時間を1年の内の12月~3月の冬の3ケ月程の期間しか与えませんでした。結果、足かけ5年がかりの作業になってしまい、香雪は経費不足、困窮することになりました。この間、余生わずかになった施主のダルマパーラは最後をサールナートで迎えようとコルカタからやって来てほどなく出家、香雪もその場に立ち会いました。
ダルマパーラは、上座部仏教の立場から香雪の描き始めた壁画について色々な意見を述べ香雪を困惑させますが、最初に完成した降魔成道の図を見てアジャンターより大きい、また魔女の姿が美しいと感激、その後間もなく亡くなりました。施主を亡くした香雪はその後、作業は早くなったが、孤立無援。予算も使い切り困窮しました。そこで香雪は作業のできない夏の期間に風景画や人物画、仏画などの小画を描き、インド国内の大都市やダルマパーラの母国スリランカなどを訪ね、個展を開き販売して資金を得ようと考えて実行、資金を捻出し、作業を続けました。日本では何年たっても帰ってこない香雪等に家族や関係者は心配しました。そして時折届く手紙や、現地を訪れ帰国した人からその実情、困窮をマスコミも聞き付け、国内では義援金を送るなどの支援の輪がひろがったこともありました。淑徳女学校を卒業し教師となった教え子が初任給を送ってくれたともいます。
仏伝の壁画は、まず入口を入って振り返り見上げた真上に降誕の図があり、そこから時計回りの西壁中央には修行を遮ろうとする魔王、魔女らを描いた降魔成道の図、そして右手の北壁部分は須弥壇になっており真ん中には本尊仏坐像が安置されている。さらにその右手の西壁には中央に涅槃の図が、東壁の降魔成道の図に対峙するように配置、描かれている。そしてそれぞれその間をいくつかの仏伝の場面で埋め尽くしています。香雪によるとその配置は、同じような画題が並び単調にならないように配慮し、また大和絵、白描画の技法を取り入れて壁面を構成したという。
日本画でコンクリート壁に直接、日本画の技法で描かれた壁画の全長は約44m、高さは4.3m以上。その大きさ、色彩の鮮やかさ、そして大和絵の画法などを多用したその迫力のある日本画の画面が今も訪れる人々に感動を与え続けています。
ちなみに描かれている人物像は、香雪が模写したことのあるアジャンターの壁画を参考にしており、その意味ではインドの絵画、歴史画の様式の継承とうことができ、実際に見学するインド人は、日本人が描いたといわれなければインド人画家の描いたものと思っているといいます。日本画家の香雪はインドの地でインドの美術の伝統、風土を見極めて、しかも壁画を描きました。またもうわずかな余命しかなかった施主ダルマパーラとの言葉の十分に通じない中での貴重な対話、議論を生かし、その志をも汲み取り、しかも自らの仏教徒としての信仰、信念を持ち、日本画家の自尊心の元に壁画をインド人や世界の仏教徒に通じるものに仕上げました。
寺院を訪れると、今も堂内には冷暖房もなく、仏陀、そして香雪の感じた制作時と同じ自然のままのインド聖地の空気で満たされています。