壁画の展開図

仏伝壁画は、南に入り口が開き、北に本尊を安置した南北に細長い堂内の東、西、南の3壁面に描かれています。

南にある入口の前には回廊があり、頭上に香雪が全日本仏教連合会から託され吊るした梵鐘があります。入口から建物に入るとまず目に入るのが正面、北に安置された金色の本尊坐像、一歩前に進むと両側、左右、東西の壁面に描かれた明るく鮮やかな色彩の仏伝・釈尊の一代記が一度に目に飛び込みんできます。

仏伝の物語は、入り口側、南壁の左端から始まります。そこから時計回りに全長約44㍍、高さ約4.35㍍の物語が展開していきます。壁画はコンクリート壁の上に直接、日本画の技法で描かれています。しかし日本画といってもそこに大きく描かれた人物や明るく鮮やかな色彩の画面からは、インド、アジャンターの雰囲気が漂い、見学する仏教徒、ヒンドゥー教徒、そして他民族の観光客をも違和感なくその画面に引きつけています。

かつて香雪は15年程前にプライベートでインドの仏教美術研究のために渡印、現地で偶然に出会ったアジャンター壁画の模写に向かう荒井寛方に誘われ幸運にも事業に参加したことがありました。その時に実見し模写し観察した人物画像等を参考にして継承すること、一方で描きこむ樹木等は寺院の近くでスケッチし現代を描きこむことにより、千年以上の時空を超えた新しいアジャンター壁画を制作しよう。おそらくそれが近代日本の画家としての香雪の意図でした。香雪はさらには施主ダルマパーラとの短い議論の期間を経て、施主の南伝仏教、また自らの北伝仏教それぞれの教義などを勘案、融合させました。そして今後とも訪れる世界の人々、仏教徒等に語りかける仏伝、さらにはヒンドゥー教徒のインド人には国の歴史画として受け入れられるもの、しかも100年は持つ仏伝画をとの信念のもとに毎朝斎戒沐浴をしながら精進し、描き遺しました。

堂内の仏伝画面の物語の大まかな配置構成は、南壁の真ん中、建物の入り口の頭上に降誕の図、そこから時計回りの東壁中央に降魔成道の図、そして右側の北の位置、中央には本尊仏、さらに続いて西壁中央には涅槃の図の大画面が配され、東西南北が互いに相対峙するように配置され、その間に物語が散りばめるように配置されています。香雪は美術作品としてのその図柄配置や構図に苦労、また大和絵や白描画等の技法も取り入れ画面を構成しています。

詳細に見ると、まず入口の南壁は左端の麻耶夫人の托胎から始まり入口の真上に降誕の図、そして太子の時代に生き物の無常を感じ、城を出る前に妃に静かに別れを告げる物語が描かれています。

その右側の長い東壁には、愛馬カンタカに乗り出城、修行のために仙人らを訪ねる場面、しかし満足できず自ら悟りを求め苦行、乳粥の供養をうける場面が続き、壁面の中央には修行を邪魔する魔女や降魔たちとの闘いの大画面の降魔成道の図が続き、その右側には悟りを得て5人の弟子に迎えられる場面、さらにはビンビサーラ王の教化の場面が描かれています。

そして続く右側の北面には仏舎利を安置する須弥壇が設けられており、一段高い位置に金色に塗られた本尊坐像が安置されています。その下に仏舎利が収められており、年に一度御開帳されます。香雪は寺院についた時に金色に塗られることを聞き反対しましたが、それは施主らの立場からすれば受け入れられず、自らの使命が多様な民族の仏教、世界の仏教を対象とすることを自覚する契機になりした。

最後、その右に続く西壁には、まず左端に壁画揮毫の経緯を日、英、ヒンドゥー、イスラムの四か国語で記した揮毫があり、続いて仏陀による病の僧の介護、父浄飯王との再会、水利の争いを諭す場面等が描かれ、その右の中央には大涅槃図があります。さらに右側の入口寄りには、提婆達多や阿難尊者、指鬘外道の物語が描かれています。指鬘外道の頭上には後輪状の輪が赤い手形によって表現されていますが、おそらく香雪や、助手の河合、寺院の僧侶らのものと思われます。作家の遊び心と信仰、関係した人々の壁画との結縁の証でしょうか。

なお、最初の契約では天井画も描く予定でしたが、途中で契約を変更し取りやめたことが当時サールナートを訪れていた日本の若い学僧の記録に見えます。

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