西暦 | 年号 | 年齢 | 野生司香雪の年表 | 主な歴史上のできごと |
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1885 | 明治18 | 11月5日、香川郡檀紙村(現高松市檀紙町)に生まれる。本名述太(のぶた)、父義問、母シカ | 東京美術学校(現東京藝術大学)設立のため図画取調掛が置かれ、岡倉天心が主幹、フェノロサ・狩野芳崖が掛になる。 | |
1887 | 明治20 | 2歳 | 1月1日妻となる関佾喜が生まれる。 | |
1889 | 明治22 | 4歳 | 美校に第1期生(横山大観・下村観山ら)が入学。/天心ら国華社を設立、美術雑誌『国華』創刊。 | |
1890 | 明治23 | 5歳 | 天心が美校の校長になる。 | |
1893 | 明治26 | 8歳 | 大観らが美校第1回卒業生となる。/黒田清輝がフランスより帰国。 | |
1894 | 明治27 | 9歳 | 観山が美校を卒業し、教授となる。/日清戦争が始まる。 | |
1896 | 明治29 | 11歳 | 美校に西洋画科新設される。/黒田らが白馬会を創立。 | |
1898 | 明治31 | 13歳 | 天心が美校を辞職、観山・橋本雅邦らも辞職。日本美術院を設立。香川県工芸学校が開校。 | |
1899 | 明治32 | 14歳 | 檀紙尋常小学校・堂山高等小学校を経て、香川県工芸学校(現県立高松工芸高校)金属工芸科に入学。同級生に藤川勇造・磯井如真がいた。 | |
1901 | 明治34 | 16歳 | 高松で日本美術院の巡回展が開催される。 | 観山、広業らが日本美術院正員のまま美校に復職。天心がインドへ渡り、詩人タゴールと親交を深める。(翌年帰国) |
1903 | 明治36 | 18歳 | 香川県工芸学校卒業。東京美術学校予備課程金属工芸科に入る。 | 大観・菱田春草がインドに渡る。(同年帰国)/観山がイギリスに留学する。 |
1904 | 明治37 | 19歳 | 東京美術学校(美校)日本画科一年に在学。10月母シカ歿(47歳) | |
1905 | 明治38 | 20歳 | 美校制度改革による日本画科新館に入り、イギリスから帰国した下村観山が担任となる。 | 東京美術学校制度改革、日本画科は本館(寺崎広業・結城素明)と新館(下村観山・鶴田機水)に分かれる。 |
1906 | 明治39 | 21歳 | 美校日本画3年に在学。 | インド民族運動高揚期に入る。日本美術院が茨城県の五浦に移る。 |
1907 | 明治40 | 22歳 | 東京勧業博覧会美術展覧会に「しずか」を出品、入選。 | 青木繁が同左展に「わだつみのいろこの宮」を出品。第1回文展文部省展覧会(文展)が開催され、天心・雅邦・大観も審査員となる。 |
1908 | 明治41 | 23歳 | 美校日本画科を卒業。卒業制作展覧会に「黄泉」を出品。この年の卒業制作作品は美校内外の批評が厳しかった。日本橋の三上呉服店に図案描きとして就職。 | 下村観山が東京美術学校を辞職。/橋本雅邦没。横山大観・下村観山らが文展への出品を拒否し、審査員を辞退。 |
1909 | 明治42 | 24歳 | 関佾喜と結婚。香川県の善通寺11師団に入営。 | 大観・観山が文展審査員に復帰。 |
1910 | 明治43 | 25歳 | 東京の下谷区谷中坂町に新居を構える。 | 大逆事件がおこる。 |
1911 | 明治44 | 26歳 | 橋本関雪らとともに美術研精会の正会員となる。美校に東台画会が結成され、以後研精研究会や東台画会で作品を発表。 | 美校で親友だった桐谷洗鱗がインドに仏教美術研究のため渡る。 |
1912 | 明治45 | 27歳 | 10月12日長男義章が生まれる。 | 天心が、ボストン美術館の仕事で再びインドに向かう。 |
1913 | 大正2 | 28歳 | 三上呉服店閉店を支配人として采配、成功させる。 | 天心没。/タゴールがアジア人初のノーベル賞(文学賞)を受賞する。 |
1914 | 大正3 | 29歳 | 淑徳高等女学校に図画講師として奉職(昭和20年まで在籍)。雅号を一時隣山に改める。再興日本美術院研究会員となる。 | 第1次世界大戦が始まる。大観・観山が突然に文展審査員を辞任。日本美術院が再興され、再興院展第1回展が開催される。 |
1915 | 大正4 | 30歳 | 2月父義問歿。56歳。家督をつぐ。2月次男、公男生まれる。香川県工芸学校で個展を開催。 | ガンジーがアフリカよりインドに帰国し独立運動の指導にあたる。 |
1916 | 大正5 | 31歳 | 再興日本美術院院友となる。 | タゴールが来日。日本美術院でインド絵画が展示され、タゴールの美術講話が開催される。タゴールがインド・ビチットラ美術学校に日本画教師を招聘し、大観は再興日本美術院同人の荒井寛方を送る。片山南風も私的に同行。 |
1917 | 大正6 | 32歳 | 前島密の支援を得て仏教美術研究のためインドへ渡る。 | 桐谷洗鱗がふたたびインドに渡る。 |
1918 | 大正7 | 33歳 | 正月、コルカタで荒井寛方から国華社から依頼されたアジャンタ壁画の模写の協を依頼され参加。現地で親友桐谷洗鱗に会う。 | |
1919 | 大正8 | 34歳 | 大阪朝日新聞社が京都帝室博物館(現京都国立博物館)で「アジャンタ壁画模写展」開催。 | インド民族運動弾圧強化。ガンジーの不服従運動始まる。文展が帝国美術展覧会(帝展)に改編される。前島密歿。 |
1920 | 大正9 | 35歳 | 再興第7回院展に「窟院の朝」を出展し初入選。梵語・インド哲学の勉強、研究者などと交流を深める。 | 再興院展の洋画部がなくなる。 |
1923 | 大正12年 | 38歳 | 関東大震災で東京帝国大学に保管中のアジャンタ壁画模写絵が焼失する。 | 関東大震災がおこる。 |
1924 | 大正13年 | 39歳 | インドの詩聖タゴールがふたたび来日。 | |
1928 | 昭和3 | 43歳 | 高松産業博覧会美術館に「金剛」「漁村」を出品インドから持ち帰った文物を展示する。 | |
1929 | 昭和4 | 44歳 | 桐谷洗鱗が3度目のインドへ渡る。 | |
1930 | 昭和5 | 45歳 | 在京美術家による香川県美術会が結成され、これに参加する。 | インドでガンジー指導による非暴力抵抗運動が始まる。観山没。 |
1931 | 昭和6 | 46歳 | 平等通照師の梵語講座を受講するなどインドへの関心が続く。 | 満州事変おこる。 |
1932 | 昭和7 | 47歳 | 7月19日、親友桐谷洗鱗の急死により、インド初転法輪寺壁画揮毫の後任に選ばれ出発。11月末にカルカッタ到着後、詩聖タゴールも出席しての歓迎会が開かれる。12月25日サールナートに入り、第2回初転法輪寺祭に参加。直ちに壁面を剥ぎ取り、制作の準備にかかる。 | 上海事変おこる。5・15事件おこる。 |
1933 | 昭和8 | 48歳 | 最初の壁画「降魔成道」に取り掛かる。暑さのため避暑地のシムラに移動。ネパール王子の招待でネパールに入国。/シムラ・カルカッタで個展を開く。/ブータン国王より宝剣を受ける。 | 1月家族を支えてくれていた渡辺海旭歿。インド大菩薩会ダルマ・パーラ得度。その三カ月後の4月29日没。 |
1934 | 昭和9 | 49歳 | 4月には17画題中14面の壁画が完成。資金難のために、ボンベイ・カルカッタ・コロンボなどで個展を開く準備をし、帰国までに順次開催、日本人駐在員らの協力を得て、成功し資金を得た。 | 香川県工芸美術綜合展覧会(現県展)の第一回展が開催される。 |
1925 | 昭和10 | 50歳 | コロンボで個展を開く。コルカタで詩人ヨネ・ノグチに偶然出会い、博物館など案内、彼はベナレス大学の講演の後にサールナートを訪れしばらく滞在し、ムンバイに向かった。 | ネールがインド国民会議派の指導者となる。長野善光寺雲上殿着工する。 |
1936 | 昭和11 | 51歳 | 香川県工芸学校から救援金が送られる。/カルカッタで個展を開く。4月すべての壁画が完成。5月の半ばに開眼供養式。ベナレス市民有志からの頌徳状をうける。11月に帰国。日本美術院の帰国歓迎会が開かれた。 | 2・26事件おこる。 前年断行された改編後第1回目となる帝展(新帝展)が開催される。 |
1927 | 昭和12 | 52歳 | 香川県工芸学校で講演。香川県工芸美術綜合展覧会(現県展)の日本画審査員となる。以後も不定期に歴任。 | 日華事変おこる。/第1回文部省美術展覧会(新文展)開催。 |
1940 | 昭和15 | 55歳 | 長野善光寺雲上殿の壁画制作の準備を始める。 | |
1941 | 昭和16 | 56歳 | 善光寺納骨堂本体工事完成。 | 8月タゴール没。太平洋戦争始まる。 |
1942 | 昭和17 | 57歳 | 香雪をサールナートに送り出した高楠順次郎の創設した武蔵野高等女学校に寄宿し善光寺壁画の抗争を練る。 | インド・独立運動が激化。 |
1943 | 昭和18 | 58歳 | 単身で長野へ疎開し、雲上殿の壁画制作にあたる。清水谷恭順師の計らいで大勧進に寄宿する。 | 清水谷恭順が善光寺大勧進住職となる。 |
1945 | 昭和20 | 60歳 | 淑徳高等女学校を退職。自宅が空襲で全焼し、終戦後も長野に滞在を続けることになる。。 | 8月15日終戦。 |
1946 | 昭和21 | 61歳 | 第1回日本美術展(日展)開催。 | |
1947 | 昭和22 | 62歳 | 善光寺雲上殿の壁画が完成。 | 日本国憲法公布・イド独立し、ネールが大統領となる。 |
1948 | 昭和23 | 63歳 | 初転法輪寺の壁画下絵を佐藤賢乗師のすすめで永平寺へ献納。/香川美術会発足し、会員となる。 | ガンジーが暗殺される。 |
1949 | 昭和24 | 64歳 | 長野善光寺雲上殿落慶法要。/観光高松大博覧会に「指鬘」を出品。/栗林公園の商工奨励館で個展を開催。 | |
1951 | 昭和26 | 66歳 | インドに聖牛である白牛の贈呈を依頼、インド政府の許可を得て善光寺に3頭を迎える。 | |
1952 | 昭和27 | 67歳 | 長野市を離れ、湯田中渋温泉の不動山荘を借り受けて移り住む。 | 清水谷恭順師が善光寺を去る。 |
1954 | 昭和29 | 69歳 | 第2回世界平和会議に出席の代表が香雪を訪ね山荘にやって来た。 | |
1955 | 昭和30 | 70歳 | 仏教伝道協会より「釈尊絵伝」全12枚の制作を依頼されるが34年までに7枚が完成。 | |
1956 | 昭和31 | 71歳 | 埼玉県鳥井観音(名栗観音)の壁画を制作。翌年完成。 | |
1958 | 昭和33 | 73歳 | 第2回現代仏教美術展に「不動明王」出品。 | 大観没。 |
1962 | 昭和37 | 77歳 | 脳出血に倒れ入院。機能回復につとめるも、以後ほとんど入院生活となる。 | |
1973 | 昭和48 | 88歳 | 仏教伝道協会の「仏教美術賞」を受ける。3月28日朝、88歳で永眠。 | |
1982 | 昭和57 | 妻佾喜歿95歳 | ||
1984 | 昭和59 | 永平寺所蔵の初転法輪寺壁画の下絵が表装される。 | ||
1986 | 昭和61 | 香川県文化会館が回顧展「インドへの熱き想い、野生司香雪展」を開催。 | ||
1987 | 昭和62 | 信濃毎日新聞が『野生司香雪 仏画の世界』を出版。 | ||
2016 | 平成28 | 野生司香雪画伯顕彰会『野生司香雪―その生涯とインドの仏伝壁画―』を出版。壁画の保全に向けた活動を始める。 |